歴史ギャラリー
1967年に千葉県で初めての駅前のメンタルクリニックを開業した時からこころの専門医療機関となりました。「クリニック」を名称に用いた医療機関としても千葉県で最初でした。
創業当初からの資料をご紹介いたします。

遐齢小児方(かれいしょうにほう) 桃山~戦国時代のカリスマ医師・曲直瀬道三(まなせどうさん)が著した日本最初の小児科治療ガイドラインです。初版は戦国時代ですが、当家伝来は寛永7年:1630年でした。漢方だけでなく宣教師伝来のポルトガル由来の西洋医学も取り入れた画期的な医学書で、江戸時代初期までの標準的な医学書でした。

御側医師衆中御医按書 文政5壬午季秋ヨリ虎狼痢流行病附 1822年のコレラ(下痢を主症状とする致死率の高い流行病)に際しての、病理・治療法についての研究書です

家傳 猩々乳方 (江戸時代) 佐々木家に伝わる秘伝の薬の製法 成分から考えると消毒薬・殺虫剤と思われます

全體新論 安政4年(1857年) 中国在住の英国人医師 B. Hobson が1851年に出した書物の翻訳。江戸、京都、大阪の3つの版元から同時発売され、瞬く間に日本中の西洋医学を希求する医師の間に広まりました。解剖学のみならず病理学にも多くのページを割いています。

広島県権令(県知事)伊達宗典 布告23号 明治5年10月 漢方だけではダメ、エビデンスの明らかな西洋医学を取り入れよという突然の告知。 ところが当時は西洋医学を学ぶ学校が無い(日本には医学部はもちろん大学すらもない時代)ので大騒ぎになりました。 佐々木八百衛(医師16代目)は書物で西洋医学を習得していましたが、地域の基幹病院には西洋医学を知るものがいないため、どうすれば良いのだと慌てふためく内容の手紙が残されています。 役所の急な決定で医療機関が振り回されるのは150年前も今も同じですね。

広島県権令(県知事)伊達宗典 布告57号 明治5年11月3日 「医師として開業しておきながら知識に欠け、人々を死に至らしめるものが多く耐えがたい。人民保護のため明治6年から広島県では医師は免許制にするから医師を続けたければ奮って勉強し試験に合格せよ」という布告。よほど腹に据えかねたのでしょうが怒りの激しさに圧倒される文書です。 試験科目は物理化学、解剖学、生理学、薬理学、病理学、内科外科治療学、病床実技、選択科目として漢方、婦人科、小児科、眼科。このすぐ後に出された布告では、西洋医学を試験に出すので準備を怠らないようにという記載がありました。 ちなみに東京を含む全国での医師免許制度は2年遅れて明治8年からでした。

医師試験願出 明治6年1月 前年の広島県からの医師資格試験についての布告に応じ、佐々木八百衛は初の医師資格試験の願書を出しました。当時の51歳は、そろそろ引退する年齢。何とか合格し、開業医を続けられるようになったのです。やれやれ、、、 孫の佐々木進(医師18代)は数年後にできたばかりの東京医学校(のちの東大)に進学し、最初から正式に西洋医学を学びました。

撤善篤(サルゼント)繃帯式 明治14年佐々木進による写本 オリジナルはアメリカで1869年刊行、日本では明治5年初版。標準的な外科学書であり、明治時代には各地で使用されました。

薬剤の仕入れ台帳 麻酔用のコカイン、鎮痛剤としてモルヒネ(麻薬としての規制はまだ無く、普通に流通していました)など多種多様な薬品の購入量と価格の記載があります(明治25年)

北里柴三郎博士(千円札の肖像の人)からの感謝状(結核菌、コレラ菌の発見者ロベルトコッホ博士の日本への招聘に助力「コッホ先生は満足されて横浜港から船でお帰りになりました。コッホ先生に代わって御礼申し上げます」等の記載) (明治41年)

聴診器 象牙・ゴム製
大正12年佐々木貞雄(医師20代)が東大2年生となり実習が始まる時に、赤門前の医療器械店で購入。軍医としてシンガポールで勤務し英軍の捕虜となり、昭和21年に帰国するまで使用しました。
腕章
軍より支給される軍医の腕章

薬の処方に使用した天秤ばかり(昭和45年の公的検定印があるのでこの年までは現役であったことがわかります)

尿比重計(昭和中期)

血算(白血球などの種類を測定)測定用の機器(エルマー光学製昭和中期)

骨髄検査用の機械(エルマー光学製昭和中期)

ネブライザー(気管支喘息の吸入治療の用具 昭和中期)
これまで1740年創業と記していましたが。2026年千葉豪雨の後に古文書を干していたところ、更に古い文書が続々と見つかりました。これに基づき1630年創業と訂正させていただきます。
